1995
平成7年
4月
創業から40年、ついに夢に描いた
理想の工場が誕生
創業者の古波津清昇には「沖縄に国際競争力のある工業団地を作り、自活できる産業を育成したい」という大きな夢がありました。
1969年、琉球工業連合会の副会⾧だった古波津清昇は「沖縄国際工業化構想」を発表し、中城湾港開発を琉球政府行政主席に陳情。加工貿易の開拓の必要性を主張し「中城湾に国際規模の大型船が自由に出入りできる港湾設備とともに工業団地を造成して…」と具体的に提言していました。
一方、中部市町村は埋め立て実現に向けて懸命に努力していましたが、政府は論議を繰り返すばかりで、実態は先送りに。埋め立てが完了し、拓南製鐵(株)が工場を移転したのは、バブル経済崩壊後の1995年4月で、陳情から実に26年後のことでした。
総額260億円を投じて建設された新中城工場は、敷地約9 万坪、生産能力月産4 万トン。製鋼工場には当時最新鋭の直流電気炉を導入し、最適電力投入システムを採用しており、多種多様な鉄くずにも最適電力が投入できるほか、省エネ効果も抜群でした。また、従来は溶解工程の中で精錬作業を行なっていましたが、溶解工程と精錬工程を別々にする炉外精錬設備を採用することで、生産性も品質も格段に向上しました。創業から40年目にして、夢に描いた理想の工場が誕生したのです。
ところが、本格操業に入った頃から急激な円高に伴い、輸入品が急増し国内需要を一部代替したため、企業の生産が伸び悩み、また価格破壊が一層浸透するなど、拓南製鐵(株)の売上げにも大きな打撃を与え、新工場は予想以上に厳しい環境下でのスタートとなりました。当初月間2万5,000トンを生産する計画でしたが、1万8,000トンの生産となり、それさえもさばけない状況で小棒市況は低迷が続き、需要自体も落ち込みました。好調な時期は県内需要だけで月間2 万5,000トン、悪い時でも2万トンは超えていたのが、1 8,000トンさえ売れない状況になったのです。「新工場が本格操業するころには長期化した不況から脱却するのでは」との期待は見事に裏切られた格好になりました。
一方で1997年、拓南製鐵(株)の主力工場として会社の発展を⾧年支えてきた浦添工場は、跡地に国立劇場おきなわ(国立組踊劇場)の建設が決定。浦添工場閉幕の花道を飾りました。